朝鮮人参中国へきたイエズス会士と人参 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの来日(一五四九)によって、先駆的かつ精力的な布教 活動は日本をしばらくはその教区のひとつとしたが、秀吉が突然のようにバテレンの国外退去令を発した(一五八七)のちはキリスト教宣教師の足場は失われた。ザビエルは中国への入国を果すことができずに広東に近い上川島で病没した(一五五二)が、イエズス会のローマ学院で数学や天文学を修めたイエズス会士マテオ.リッチはマカオで入国の機会を待って中国に入り、肇慶府定住に成功し、さらに北京での定住布教が許された(一六〇一)。明の万暦期、日本では家康が国内統一に成功した年である。家康も幕府もイエズス会士を必要しなかった。そればかりでなく、幕藩体制の障害となるキリスト教は禁教としたのである(一六一二ー一六一三)日本人教徒、各会派の修道士たちは、密かに潜伏したもの以外はマカオ、マニラに追放された(1614)ちようどそのころ中国ではイエズス会士ジユリオ・アレニが入国している。また同年(一六一三)入国したアパルス・セメドは人参を初めてヨーロッパに紹介した。 一六二二年来華したイエズス会士ヨハン・アダム・シヤールは一六三〇年来華したイエズス会士エチネ・ファーベとともに明朝の滅亡から清朝の成立を目のあたりにしたはずである。アダム。シヤールは清朝に迎えられて欽天監監正を任命された。これは天文台の長官であり、暦に関わる重要職であるからかなりの高官であったにちがいない。その後も多くのィエズス全土が清朝に仕えた。 清朝の歴代皇帝のなかで聖祖康配…帝(在位一六六一ー一七二一)、高宗乾隆帝(在位一七三五-九五) は史上稀な開明君主といわれている。康配…帝の時代は、ヨーロッパではフランスの君主政を完成したルイ一四世 (太陽王) の時代である。ルイ一四世はすぐれたフランス・イエズス会士を選んで中国へ派遣した。ルイ大王学院で数学を教えていたジャン・ド・フォンタネ以下五人の選ばれたイエズス会士は、タシヤール、ジェルピョン、ブ-ブエ、ル・コン-、ド・ビドルーである。一行は一六八五年三月フランス船ロワゾー号でブレス-を出帆、同年九月、シャムに到着した。ここでタシヤールを残し、中国船で寧波に来航したのは一六八七年、その翌年、フォンタネら五名のイエズス会士は北京に入ることができた。このうちのアーブェはジェルピョンとともに清朝の宮廷に奉仕することになった。ブーブエはヨーロッパの科学を康配仙帝に進講するなどヨーロッパの文化を紹介した。帝の熱病にキナ皮を献上してその卓効が認められ、宣教師の住居 (のちの北堂) があたえられたのもこのころである。また、帝の命により欽差の資格をあたえられて帰国し、イエズス会士一〇名とイタリア大画家一名を伴ってフランス船アンフイ-リ-号に乗船、一六九八年一一月広東に到着した。このなかにジャン・バブティス-・レジスやドミニク・バランナンがいた。バランナンは母国のフランスでその全土の近代的な地図の作成が行われているので、中国全土の測量と地図の作成を献言した。ついでド・フォンタネも帰国を命ぜられ、一六九九年広東を発って帰国、八名のイエズス会士を伴ってアンフイ-リ-号の再航優でフランスを発ち一七〇一年中国に到着した。中国全土の地図の製作で活躍するピエール・ジヤル-ウ- 、ペレ・ビンセン-・デ・タルトルもの釆華もこのころと思われる。 (朝鮮人参秘史 川島祐次 著より)
by xsightx
| 2005-11-16 09:04
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