ラムズフェルト国防長官ドナルド・ラムズフエルドの出世の糸目は、ニクソンの大統領補佐宮だった時代にあるが、ニクソンがウォーターゲート・スキャンダルで辞任後、一九七五年に最年少の四三歳で国防長宮に就任してフォード政権の全期間をつとめた。B1爆撃機、トライデント原子力潜水艦、MXミサイルの開発といった大がかりな仕掛けで、七〇年代に莫大な金を食う兵器体系をつくってソ連のブレジネフを挑発し、ソ連のアフガン侵攻の第一因を生み出した。長官を退任後は、八一~八六年に前述のランド・コーポレーション会長となって軍事世界の人脈を編みあげ、一時レーガン政権の中東特使をつとめた。レバノンの首都ベイルートで八三年四月十八日に爆弾を積んだ自爆トラックによってアメリカ大使館が爆破され、CIA職員七人などアメリカ人一七人を含む六三人が死亡、十月二十三日にもベイルートでアメリカ海兵隊司令部とフランス軍宿舎が自爆トラックに襲われ、米軍二四一人と多数のフランス軍が死亡する大事件が起こって、中東和平になす術もないアメリカの姿をさらした。ラムズフェルドはこの直後の八三年十二月二十日・イラン・イラク戦争渦中にイラクのバグダッドを訪れてサダム・フセインと握手し、イランを叩くための軍事支援を約束した。ところがサダムは、イラン・イラク戦争停戦後にアメリカから一人歩きをはじめ、西側から獲得した軍事技術を大幅に拡大してクウェート侵攻に踏み切る。 こうした苦い体験から、九八年にはアメリカ議会でサダム・フセイン政権を打倒するための特 殊部隊の戦士養成と秘密兵器のために一億ドル近い予算を獲得するイラク解放法という、内 政干渉のきわみといってよい悪法が通過した。当時このアメリカ特殊部隊の誕生は、六一年にケ ネディー大統領がCIA長官ダレスにそそのかされて大失敗したキューバ侵攻作戦のビッグス湾 事件の二の舞になると、各界から批判された。しかし法案を支持し、ロビー活動を展開した者が いた。二〇〇二年に世界中を反米感情に導くイラク先制攻撃諭の中心人物ラムズフェルドと、 彼のランド人脈、ザルマイ・バリルザツド、ポール・ウォルフォウィッツ、ウェイン・ダウニン グらであった。バリルザッドとウォルフォウィッツは二〇〇一年のアフガン攻撃の中心人物、ダ ウニングはウサマ・ビンラデインを追跡する米軍一のテロリズム専門家である。彼はアフガン攻 撃開始の目からブッシュ政権の国家安全保障会議テロリズム対策副部長に就任し、二〇〇二年六月にはイラク攻撃に優柔不断な政権に不満だという表向きの理由で辞任したが、″夜の殺人が最も好き″と言われるダウニングは・役割を放棄するような人間ではない。政権と内密の約束を交して潜伏したのである。 ラムズフェルドは、一九九九年からならず者国家 の脅威に備えるミサイル防衛を主張する リーダーとなって再びブッシュ政権の国防長官に就任した。その途端、ミサイルどころか航空機 ゲリラに総本山ペンタゴンが破壊され、九死に一生を得る事態に狼狽したのである。中東イスラ ム世界に対するこの長官の憎悪は激しいものがある。 広瀬 隆 「世界金融戦争」より
by xsightx
| 2006-01-09 12:22
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