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お笑い政治寄席

「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」小林久三 著より


 晋作は、渡航の健を捜しに長崎の英国商人グラバーをたずねた。グラバーは、晋作に現在はそのときではないといって渡航に反対し、それよりもむしろ下関を一刻も早く開港し、幕府との戦争にそなえて武器を密輸することをすすめている。
 当時、幕府はグラバーに長州藩に武器を売ることを禁止していた。長州藩は武器購入の道をふさがれていたのである。一方、薩摩藩は、それが許されている。
 そこで考えだされたのが、薩摩名義でグラバーから武器を買いとり、長州藩の手にわたす代行機関として龍馬の亀山社中が引きうけるという方法であった。そうすれば、薩長連合の気運を高めることができる。
 幕府との対決姿勢を改めた長州藩が必要としているのは、新式銃と蒸気船であった。それに対し、薩摩藩はコメが不足している。不足しているコメを、長州藩から薩摩に運ぶ。
 亀山社中は動きはじめ、グラバーから新式銃七千三百軽を買い取った。その銃は亀山社中の手でひそかに長州藩に運びこまれた。
 龍馬の思惑と計算は適中して、薩長両津はたがいに歩みより、慶応二年(一八六六)一月二十二日、薩長連合の密約が成立した。この日から、薩摩と長州が幕末の動向の鍵をにぎることになる。
薩長連合の立役者は龍馬であるが、見逃してならないのはグラバーの存在であろう。トーマス・ブレイク・グラバー。イギリスの武器商人である。
 スコットランド生れ。沿岸警備隊に勤務するイギリス海軍大尉を父にもつグラバーが、なぜ日本にきて、長崎を拠点にして武器を薩長南藩に売りまくり、徳川幕府を倒壊させたのか、その動機や理由はいまだにはっきりしない。
 グラバーが来日したのは、安政六年(一八五九)。その翌々年にマセソン商会の日本支店長になるが、さらに翌年の文久二年(一八六二)二月にはグラバー商会をつくり、製茶と外国人居留地の借地買いつけにのりだす。
 イギリス人フランシス・グルームとの共同事業だが、このときグラバーは二十三歳。居留地の買いつけはきわめて順調で、二年間で二十三区画、一万五千五百坪におよんだが、その資金はどこから調達したのだろうか。
 龍馬は、グラバーと薩摩藩の小松帯刀の紹介で会い、七千三百軽の銃の取り引きを成立させ、長州藩の伊藤俊輔、井上聞多に引き渡しているが、総額九万二千四百両、ざっと三十二億円の取り引きである。
 七千三百鍵の銃には、ゲベール銃三千挺の中古品が入っていた。この銃はアメリカの南北戦争で使い古したもので、スクラップ同然だった。それを一挺五両で売りつけている。
グラバーは、若いわりにはかなりしたたかで、龍馬や薩長雨藩を手玉にとったといえるだろう。
 それはそれとして、薩長連合が成立して、両藩の動きはあわただしくなった。中央進出を競って憎み合っていた両藩が、同盟国として交流を深めたことで決定的な状況ができあがってきたのである。


幕府と薩長との武力衝突で一体誰が得をするのか?

久光よりさらに強大な人物がいる。トーマス・ブレイク・グラバー。彼らは久光だけなく長州藩にも圧倒的な影響力をもっことができた。日本名、倉場宮三郎。
 このイギリスの武器商人は、薩摩藩と長州藩に武器弾薬を売りつけて巨万の富を築きあげた。薩摩藩の小松帯刀の紹介で龍馬と知り合ったグラバーは、龍馬の仲介でまず長州藩に七千三百挺の銃を売りつけ、薩、長両藩に食いこんで、やがて明治維新の陰の大立て者
にのしあがっていく。
 銃以外に艦船だけでも二十隻、金額にして百十七万五千ドルを薩長両藩に売りっけている。それ以外にも、あらゆる武器に手を染めている。まさにヌレ手でアワの大もうけで、グラバーが手にした利益は莫大な額にのぽったといえるだろう。薩摩藩の家老が、グラバ
ーの暮しを、三十万石の大名に匹敵するといったが、それは過小評価だといって差し支えない。
 武器商人として、二十代半ばのグラバーが、幕末、幕府を倒すという名目で薩長連合を成立させる陰の黒幕になったばかりか、島津久光といった大物藩主とも対等につき合っていたのである。それだけでなく、イギリスへ留学した五代才助たちは、フランス人のモン
ブランと契約を結び、慶応二年のパリ万国博覧会に薩摩藩は参加している。
 薩摩藩は家老岩下方平をリーダーとする一行がフランスに渡り、万博に四百箱あまりを出品し、陳列場には日本薩摩太守政府の名を使って幕府に対抗している。薩摩藩は、この時点で、すでに幕府を崩壊させることができると読んでいたのであろう。
 薩摩藩は万博に参加しただけでなく、五代才助たちはイギリスの工場地帯を視察し、プラット紡績工場に紡績機械から工場の設計、技師の派遣を依頼した。その結果、慶応三年八月には鹿児島に日本初の紡績工場が誕生している。
 こういった斡旋をグラバー単独でできるわけがなく、その意味で彼の背後にはヨーロッパの巨大な組織があったとみるべきであろう。その組織は、十九世紀のアジアに進出して、アジアを拠点に大量の武器を売り込み、巨額の利益をつかもうとしていたネットワークだといえる。武器商人による、巨大なネットワーク。
グラバーは、そのネットワークの一員だったのだろうか。幕末、幕府と薩長連合による武力衝突があれば・彼はさらに莫大な利益を得ることができるであろう。そして薩長両藩を中心にした新政府が成立すれば、これまでのつながりを土台にしてさらに有利なビジネチャンスが生れる。
 にもかかわらず龍馬は江戸城を無血開城にして、江戸を戦火に巻きこむことはなく、戦闘は東北、北海道を舞台にした小規模なものになってしまった。武力討幕による、大規模な国内戦争を想定したから、グラバーは薩・長だけでなく、肥前、肥後、宇和島、土佐など西南各藩へ武器・弾薬、船舶を売りこんできたのだ。もし国内戦争で、それらの武器が使われなかったら、各藩への売り掛けが貸し倒れになってしまう。
グラバーは、薩摩藩主島津久光に対して絶大な影響力をもっていた。
一つの証言がある。イギリス公使館付き医師ウイリァム・ウイリスは、慶応二年(ー八六六)九月、パークス公使にしたがって鹿児島を訪れているが、そのときのようすを本国にあてた手紙のなかで、次のように報告している。
薩摩侯はグラバー商会に対して多額の債務があるので、これを利用してグラバーはたえずなにかをしでかさずにはいられない性質の公使と薩摩侯との会談を斡旋したのである。
私のみるかぎ。では、公使や提督らのなかでも・グラバーがとびぬけて一番妻な賓客であった
薩摩侯とは久光のことだが、武器購入でグラバーに多額の債務をかかえた久光は、イギリス公使のパークスよりも、グラバーをはるかに大事にしていたのである。そのグラバーの斡旋による島津=パークスの会談は、幕末の歴史を左右するほど重要な会談だったといわれる。
グラバーは、明治になって長州の毛利家が編纂した幕末史『防長回天史』のなかで、編集人のインタビューに対して・パークスは島津久光に会うまで幕府支持だったか、薩摩にいって久光に会ってから、百八十度変わったと前置きして、次のように語っている。
(パークスはグラバーの肩を叩いて)『すまんすまん。これまで自分は愚かだった。きみのいうことを信じなかったが、自分が誤っていたといま目がさめた。はじめて日本の大名の考えかたがどんな方向に進んでいるかがわかった。いままで大名とイギリスの間に連がっかなかったのは、幕府側が壁をっくっていたのだ』と、しみじみ私にいって詫びたものです。
っまりこのグラバーが、日本のために一番役に立ったとおもうことは・私がバリー・パークスと薩摩、長州の間にあった壁をブチ壊してやったことです。これが私の一番の手柄だとおもっています
 としてそのあと、グラバーはこういっている。
私は日本の大名と何十万、何百万の取引きをしたことがある。しかし、ここで強くいっておきたいことは、ワイロは一銭も使ったことがない (中略)日本固有のサムライの心意気でやったということ、これだけは特筆大書してもらいたい。
 徳川幕府の叛逆人のなかでは、自分がもっとも大きい叛逆人だと私はおもっている
 徳川幕府に対する最大の叛逆人。多少の誇張とおもいこみはあるだろうが、グラバーは、徳川幕府を倒したのは、薩摩藩でもなければ長州藩でもなく、グラバー個人だと自負していたのである。もっと具体的にいえば、グラバーが討幕勢力に売りまくった武器弾薬、艦
船が二百六十年あまりつづいた幕府を滅亡させたと、分析していたのであろう。
 要するに武力討幕に徹底的にこだわり、薩摩、長州、土佐などの尻を叩きまくったのは、グラバー自身だったのは事実である。その場合、グラバーがヨーロッパの最新式の武器、艦船を扱っていたことが最大の切り札になった。
 グラバーは血の気の多い男だったといわれる。グラバーの背後にひかえるヨーロッパの 武器商人にとって、アヘン戦争終了後の市場は日本だ。日本に国内戦争が起るために必要な条件は、薩摩と長州両藩が反幕府のために結束することだ。そう考えたグラバーは、武器取引きをつうじて知り合った龍馬を利用することをおもいついた。土佐藩脱藩者の龍馬なら、藩の枠をのりこえて自由に動ける。
 グラバーは、おそらく龍馬を陰に陽に援助したにちがいない。薩長連合成立のため・龍馬は奔走した。ところが、その過程で龍馬は大きく成長して・個人の身で時代を転換させようという野心をもちはじめ、船中八策を練り、いきづまった政局を打開するためには大政奉還以外にないと主張しはじめる。
グラバーにとって、龍馬はもはや邪魔者でしかなかった。ビジネスの障害物でもある。
 龍馬を、ただちに処分すべし。
グラバーは、その意向を島津久光につたえた。久光も・グラバーと同じ立場にあった。大量の武器を購入した薩摩藩は、国内戦争がなければ、武器は使用されなければスクラップにせざるを得ない。そのうえ多額の債務だけが残ることになる。
久光は、龍馬暗殺の指示を、ひそかに西郷隆盛に出したと推論できる。当時・鹿児島にもどっていた西郷は腹心の中村半次郎にその指示をつたえた。
 半次郎は、土佐藩に協力をもとめた。その頃、海援隊と陸援隊の対立から薄内が分裂し、深刻な対立抗争が生まれていたことを苦にがしくおもっていた山内容堂は、龍馬、中岡憤太郎の暗殺を認めた。
薩摩と土佐藩連合による暗殺決行。暗殺は、新撰組によると擬装したが、それが破綻すると京都見廻組の今井信郎を犯人のー人にしたてあげ、見廻組の犯行とみせかけようとした。
 この工作にもっとも貢献したのは、土佐出身で司法大輔の佐々木高行であろう。維新後、参議兼工部卿、枢密顧問官などを歴任した佐々木は、今井信郎に禁固五年の判決をいい渡したが、実際には三年という軽いものだった。
 すべてを知る西郷と桐野利秋(中村半次郎)は、その後、西南戦争で死亡した。
 グラバー商会は、明治三年(一八七〇)八月、倒産する。負債総額、約五十万ドル。
 グラバーが懸念したとおり、戊辰戦争は大規模な国内衝突にならず、明治維新で各藩の財政事情は苦しくなり、大量に買いつけた武器の借金返済がほとんど不可能になり、おまけに戦争が短期間で終ったため、武器、艦船が大量に売れ残り、長崎の大浦倉庫に山積み
されたためだった。
けれども、グラバーが援助した志士たちは、政府高官になっている。彼らの庇護のもとで、グラバーは明治44年に死去するのだが、幕末から明治にかけて、政、財界に隠然たる勢力を持ち続けた彼の死の床で脳裏に浮かんだのは、坂本龍馬の顔だったのだろうか。    
by xsightx | 2006-04-20 08:51
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下部 健太

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