お笑い政治寄席

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「秘録 陸軍中野学校」


 そのころの吉田邸は、女中頭の大谷ひさきが、たった一人だけ残っていた女中の早苗と、書生の志賀幹男を指揮して、家事いっさいを取り仕切っていた。大谷は吉田茂の次女の嫁入り先、麻生大賀吉(麻生鉱業社長)邸に、先代から勤めていた老女中だが、昭和十六年十月、雪子夫人が病死したので、麻生家から吉田邸に派遣されたのである。
 これについて、昭和十六年九月から十八年十月まで吉田家の書生をしていた志賀幹男(後述) は、
  大谷さんが、麻生家に入った最初は、乳母としてだった。雪子夫人が死んでから吉田家に廻されたのも、和子さんとしては、吉田さんの後妻にというつもりもあったようだ。小りんさん(後述)と、吉田さんの仲は、雪子夫人が健在の頃からだが、吉田さんはあの通りのワンマンだから、本邸に小りんさんを招いたこともあるらしい。
そんなこんなで、和子さんは、小りんさんにもいい感情をもっていなかった。大谷さんは、後に麹町の永田町の本邸が戦災した時も、焼けた自動車の中に寝泊まりして本邸の焼跡を守っていたという、責任感の強い、立派な人だったから、身分の上下などはとも角、和子さんとしてはその人物に惚れこみ、また一つには小りんさんへの反感もあって、できるならば後妻にと望んだものではないだろうか。吉田さんからも直接、大谷さんに、そんな話があったようにきいている。しかし、大谷さんは、私にも『旦那様のような性格は好きになれない』と、はっきり言っていたから、そんな性格上の相違から結びつきはなかったが、大谷さんは吉田家をしりぞいてぞいて後・再び麻生家に帰って、たしか今でも麻生さんの第妹第の堀江さんの処にいる筈だ(志賀幹男氏談)
と語っていた。そんな、主婦がわりの大谷ひさきであったから・吉田邸にはいり込んだマキは、まずこの大谷に取り入らなければならなかった。当時・どこの家庭でも困っていたのが食事である。幸い石井マキの実家は、中郡でも、かなり裕福な農家だったから、米や麦、芋などを割り当てだけ供出してもまだ多少の余裕があった。たまたま実家へいったマキが米をさげて帰ると、だれよりも喜んだのが、日々の食糧に心を痛めていた大谷である。
ね、マキ、おまえの家はお百姓なんだろう。じゃあ、お味噂や、哲油もあるわけ
ね」「ええ、家で食べる分ぐらいはつくっています」
「なら、こんどは、それも少々わけてもらってきておくれな。いいえ、お金なら出すわよ。ね、ダンナさまは、身分のおありのかただから、ヤミはできないの。だから、そっとおまえの実家のほうで、買うことにしてほしいのよ」
 マキは、こうして大谷に取り入ったばかりか、たちまち、戦時下の吉田家にとって、欠くべからざる存在となったのである。しかし、いかに農家でも、無尽蔵に食糧があるわけではない。そこで 『ヤマ』 では米、味噌、醤油、塩などの生活必需品を、ひそかに手を回してヤミ値で買いあさり、マキの実家へはこんだ。マキはそれを、買い値よりもぐんと安い、ほとんど公定価すれすれの値段で持ち込んだから、彼女は吉田家の人々にますます重宝がられ、信用もされたのである。マキはこの物資運搬のたびに、邸内の状況や来訪者の氏名など、機関への報告を怠らなかった。

 そのころ、戦局の悪化にともなって、機関ではさらに、ヨハンセン(吉田)工作の前進を考えたのである。マキのほかに、書生をも吉田邸へ送り込もうとしたのだ。そのためには、前からいる書生の志賀幹男を追い出さなければならない。
 志賀は福島県平市の出身で、麻布の大倉高商の夜学に通っていた。年齢はすで二十四歳で、高商生にしては歳をとりすぎていたから・そこに疑いをもった機関では、まず身元の洗いだしにかかった。通学状況や、成績はもちろん。ヤマ所属の憲兵曹長が出身地へとんで、家庭の表情までこまかに調べあげたのである。そこに彼を追放する口実がひそんでいるのではないかと思ったのだが、残念ながら、家庭が貧しいため進学が遅れただけで、難くせをつける余地はなかった。
曹長の報告をもとに、ヤマでは志賀の放逐会議が開かれたが、軍としては、他に手段がなかったわけではない。一番簡単なのは、召集令状を出して軍隊にひっぱってしまうか、徴用工として軍需工場へ入れてしまうことだ。しかし、それでは、あまりにも手段をえらばぬということになってまずい。と、予備士官で中野学校出の白幡中尉が反対した。召集も徴用もだめとなると、後はざん言をもって失脚させるか、甘言で誘致するかの、二つより道がない。だが、ざん言の方は、志賀が大谷に信用されている。石井マキがいかに手段を弄しても、大谷にかばわれては、新参者のアキには太刀うちができないから、これまた望みなしとなって、最後に残ったのが甘言誘致だ。当時、吉田茂は官職をはなれて浪人暮しで、不動産はあったが現金はない。毎月麻生家から届くものだけで生活していたので、書生の給料もほとんど小遣い程度。調べなく
とも、志賀がいつでも、ふところ寂しく暮していることはわかっていたから、金銭的な利益と、国家的な使命をもって誘えば落ちるだろうということになって、ヤマでは一策をあみだしたのである (伊藤康信氏談)
 この会議があって数日後、吉田邸の志賀幹男宛に、一通の封書が配達された。中には、タイプ印刷の、
『前略
 国家多端の折、弊社としてはいよいよ生産拡充の必要に迫られ、かねて、広く各学校に人材のすいせんを依頼しておりましたところ、今回、貴母校から、貴殿をすいせんいただきました。待遇その他の条件につきましては、弊社において可能な限り優遇の予定でありますので、某月某日、まげて御来社いただきたく、右御案内申上げます。

                     東京日本橋小伝馬町
                          寿栄産業株式会社』
という書面がはいっていたのである。もちろん、これは『ヤマ』が、寿栄産業の経営者をくどさ落としての工作だったが、それとは知るよしもない志賀は、書面に示された日時に、日本橋の寿栄産業を訪れた。
口裏をひきながら 『国家非常時の今どき、安閑と書生でもあるまい。」と、適度に彼の愛国心を煽りながら、待遇は准社員、月給はほとんど彼の望みどうりに支給する。
ただし『寄宿舎にはいる』 という条件で、彼に就職を承諾させたのである。志賀は、その翌日から、勤めた。
 こうして、計画はみごと成功したかに思えたが、なんと、志賀が満足に寿栄産業の寄宿舎へ寝泊まりしたのはたった四晩。五日目の夜には、寄宿舎を抜け出して、永田町の吉田邸に帰って寝ていた。そして、翌朝になると、
学徒動員で、とうとう日本橋の会社にひっぱられることになった。まったく、いやになってしまう
 と、大谷にいっては、寿栄産業に通勤するのである。志賀を信用している大谷は、吉田茂から、
近ごろ、書生の姿がみえんようだが・-‥
 と聞かれても、
学校から勤労奉仕にいってます
と答える。昭和十八、九年の当時としては、当然のことだから、吉田も不審を抱くようすもない。志賀は、たまに寿栄産業の寄宿舎へ泊まるぐらいで、ほとんど永田町に寝泊まりしていたから、追いだし工作もみごと失敗に終わったのである。こんな始末だから、ヤマとしては、もはや善悪を言ってはいられない。伝家の宝刀を抜くことになって、志賀に召集令状が出された。
吉田さんは、私に召集令状が来ると『負けるのがわかっていて、君も大変だな』と言った。入営したのは仙台の東部二十九部隊ですが、私は大倉高商の学生です。当時はまだ、学徒動員にはなっていなかつたし(変だな)とは思っていましたが、スパイをいれるための工作だったとは、今はじめて知りました
と、志賀幹男氏は筆者に語ったが、こうして、ヤマの工作は、みごと成功するかに思えた。が、どっこい、思わぬ伏兵が待っていた。というのは、その頃、吉田茂の実弟が目黒に住んでいたのである。この実弟の竹内家に、福島県相馬生まれの管野きよという女中がいたが、志賀の応召をきくと、書生さんなしでは、永田町のお宅もお困りでしょうから
 と、志賀の後釜に自分の弟を世話したのである。ヤマでは、思いがけない結果に苦笑した。『ついでに、この管野も召集してしまえ』と、強硬論をはくものもあったが
「すぐでは、吉田に気づかれて、もとも子もなくしてしまう不安があるから、まあ、もう少し時期をまとう。」という慎重説が勝ちを占め、菅野の招集は延期されたのである。
(菅野は、その後約1年、吉田邸に勤めていて、結局は招集された。茂の実弟の竹内氏は、女中管野きよの実家に疎開したが、戦後その家で病死している)
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by xsightx | 2006-03-27 10:05

ハリマオ

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マレーのハリマオこと『谷豊』は、福岡県五十川(現在は福岡市日佐五十川)の生まれである。父は理髪職人だったが、豊が三歳の頃、一家をあげて南方へ移住することになった。
日本を発つ時は、フィリッピンに行くつもりだったそうです。ところが当時、母の
胎内には私(豊の妹ミチエ)がいた。船の中で出産するのはいやだし、もしフイリッピンまでもちそうもなければ、生まれたところへ落ち着こうと言うことで日本を離れた。すると、シンガポールまでたどり着いたとき、いよいよ産気づいた。そこでシンガポールでおりて、結局トレンガヌへ落ち着くことになったのです(ハリマオの実妹谷ミチエ氏談)
 マレー半島南部の英領トレンガヌに落ち着いた谷一家は理髪店とクリーニング屋を経営、豊かでこそないが平和な生活を送るようになったのである。ところが、やがて満州事変が起こると、トレンガヌ一帯に排日の空気が濃厚となった。トレンガヌ州の主産物は米で、ゴム、錫、鉄鉱、コプラ(編者注 ココヤシから作る油脂原料)なども輸出されているが、大体マレー半島一帯の経済を支配しているものは華僑である。この経済面の実力者である華僑が、
『日本人は、中国から満州を奪った敵だ。やっつけろ!』
 と、たきつけるのだからたまらない。日本人の営業が次第に苦しくなったばかりか、州都のクアラ・トレンガヌでは、華僑に先導された群衆が、日本人の商店をおそっては投石する。こうした不穏な空気の中で、徴兵検査の時期を迎えた豊は、十八年ぶりで日本に帰った。
 その帰朝中の、昭和七年十一月のことである。例によって、排日暴徒の一団は日本人の商店街を荒し回っていたが、その暴徒の一人の広東人は谷家の裏口をのぞいた。

家族はみな店の方にいて、座敷の方には誰もいなかったから、広東人はそのままはいりこむと、二階にあがりこんだのである。その二階には、豊の妹の静子(当時七歳)が、あいにく風邪をひいて寝ていた。広東人はそれとみるより早く、おどしのためにもち歩いていた刀でいたいけな静子に斬りつけ、首をうち落としたのである。
 首をかかえた広東人の、逃げ去る姿をみかけた隣人の知らせで騒ぎだした頃、英雄気どりの広東人は、示威運動の暴徒たちの前で、首をきりきざんでみせていた。その広東人は、後に捕えられて死刑となったが、豊は徴兵検査を終えて帰って、はじめてこのことを知ったのである。彼が、わけても可愛がっていた妹の、残虐きわまる死だけに、豊の歎きは大きかったが、その歎きはやがてはげしい怒りに変わった。
(白昼公然、こんな無法な行為がなされていて、それでもまだ当局が排日運動を禁止できないようなも、ようし、目には目、歯には歯。俺もあばれられるだけあばれて、華僑や英国人に、目にものみせてやる)おとなしい、無類の孝行者だった豊の生活は、その日から一変した。不良仲間にとびこんで、たちまち親分株にまつりあげられると、乾児をつれて縦横にあばれまくったのである。そのうちに、排日で営業もなりたたなくなり、一家が店を畳んで内地にひきあげると、豊のあばれぶりはいよいよ堂に入った。パタンとトロンバの中間にあるカンボン(小部落)を根拠地とし、表面は「ゴム仲買商』ということになっていたが、そこへ集まるマレー人やタイ人はみな彼の乾児で、その数は千人を越えると言われ(実数は数百人だったようだが)ケランタン、ババンの両州を股にかけての匪賊の頭目となったのである。
 彼がもっとも得意としたのは、進行中の列車を襲って積荷をそっくり奪うという大胆不敵な犯行だ。乗客にばけた乾児と、ジャングルにひそむ乾児が巧みに連絡し、ハリマオの命令一下列車を停めて急襲するという戦法で、時には二十五万ドルの金塊をうばったこともある。しかしそれも、己れひとりの賛沢だけに費うものではなく、乾児たちにも充分に分けてやったし、時には貧家の窓から金を投げこんでやったり、病気や生活難のものには惜し気もなくあたえたかも、現地人にはむしろ人気がある。彼を目の敵にしていたのは華僑と英官憲で、必死になって追いかけまわしたが、手足のように動く乾児たちをひきつれてどっと襲ったと思うと、たちまちジャングルの中へかくれてしまう。その神出鬼没、ジャングルの茂みを、わが庭のごとく駆け廻るすばやさは、まるで千里を走る『虎』のようにあざやかだったから、誰いうとなく『マレーのハリマオ』の異名で呼ばれるようになったのである。華僑や白人からは虎以上に
おそれられ、必死で追及する英官憲にも幾度かつかまったが、外部の乾児たちと連絡してたちまち脱走した。英官憲もなんとか処分はしたいが、原地人に人気があるから、うっかり処刑することもできないで手を焼いていたのだが-- 。
 ソ満国境を越えてソ連から亡命して来たリュシコフ赤軍大将を捕えたのが、当時満州国の国境警備官をしていた北海道釧路生まれの神本利夫であった。この神本は、その後板垣征四郎大将の義弟にあたる・日露戦争の奉天大会戦で壮烈な戦死をとげた大越中佐の息、陸軍中野学校の教官だったこともある大越兼二大佐の下で対ソ工作にあたっていたが、甘粕正彦(元憲兵大尉。甘粕機関長)のすすめで、満州国治安部事務官の五島督司郎と共にバンコックへ移った(田村浩武官から甘粕正彦に『金も名誉も命もいらないという、度胸のある愛国者を、南方諜報要員としてぜひまわしてくれ』という依頼あって、甘粕が神本を派遺したという)。
当時、バンコックのチャオプラヤー川に近い住宅街の一角に『ビラモーン』という表札をかかげた、あまりみばえのしない家があった。ビラモーンは現地語の『同士』で、その表札にふさわしく、ここには田村武官の工作要して各地をとび廻っていた青年たちがたむろしていたが、神本も、昭和通商バンコック駐在社員となった五島とともに、ここへ住みついて、ハジャィ、ヤラ・バンナラ、バタン等と・鉱山技術者あるいはマングローブ(熱帯樹)のタンニン剤の集荷業者を装っては入り込み、地形や道路の調査にあたっていたのである。
 その神本に、田村武官から、
「ハリマオ、谷豊をさがしだして協力させよ」
との命令があったのは、いつ頃だったかはっきりしないが、神出鬼没のハリマオだから容易に会うことができない。神本は苦心の末、長野という芝洋行バンナラ支店員から(どうもハリマオは、最近南タイでつかまって、監獄にいるらしい)という消息をつかんだのである。さっそく南タイへとんで行って調べてみると、たしかにハリマオは入獄中とわかったから、神本は裏から手をまわし、監獄の所長や看守に金をばらまいて救いだしに成功した。
痩せたからだに、色の変わったパンツとよれよれのシャツをまとった五尺三、四寸、いかにも弱々しい、三十そこそこの男をみた時、神本は(はたしてこれが、マレー全土をふるえあがらせている本当のハリマオであろうか)と疑った。神本も五尺二寸の小男で、見栄えのしない点ではひけをともないが、その男がちらりと神本の顔をみたとたん(これだ。この男にまちがいない)神本にもはじめて納得がいったのである。
常人にはみられない鋭いまなざし、別に出獄したことを嬉しいとも思っていない様子。神本は(さすがにハリマオだ)と感じたのだ。
さっそく、別な場所へさそって工作への協力をもらかけると、ハリマオは、
「俺は、金なんかほしかアねえよ」
 もそりと言って、心を動かす様子もない。
(この男だ。こんな男こそ、互いに命を賭け、手をとり合ってゆける)と、神本はますます感心したのである。
神本の・ハリマオ口説き工作は、その日からはじまった。神本は持っていた戦車や飛行機の写真をみせた。自動車が幾台となく走っている銀座の風景や、丸の内のビル街の絵葉書もしめした。はじめは、うわの空できいていたハリマオも、その写真や絵葉書をみてから、大分態度がかわった。神本の話にも、熱心に耳傾けるようになり、これが、本当に、みんな日本なのか。本当に・飛行機や戦車も日本のものなのか
 ハリマオは、信じられないという顔つきできく。それも無理はない。彼がもの心ついてから、日本をみたのは徴兵検査の時だけである。しかも、九州の一角だけだから、日本の五階も六階もの洋館の建ちならんでいる風景は知らない。帯のような人波や、織るような電車自動車の流れもみていなかった。彼の知っている日本と言えば、母や父の語る大正初年の日本であり、今度彼自身が目でみて来た九州の一角だけにすぎない。日本の国力については、まったく無知なのだ。そんなところへ、英蘭側の「日本は野蛮な未開国』という悪宣伝だから、ハリマオは(マレーの原地人部落に毛の生えた程度なのが日本だ)と思いこんでいたのである。今度の帰国で多少その考えは変ったものの、それでもまだ戦車や飛行機まである文明国とは思っていなかったから、神本の言葉を容易に信じようとしなかったが、(その日本が、民族解放の旗をかかげて、近くマレーにまで進撃して来るかもしれない)という夢のような話も、神本が泊まりこんでの幾日かの説得で、段々わかってきた。
それとともに、彼の心の底に眠っていた祖国愛の血も、次第にめざめ、湧きたって来たのである。元々彼が悪人へ走ったのは、私欲のためではない。華僑や、英国人が、平和をみだす行為をも『排日』という自分たちの御都合主義から、みてみぬふりでいる治安のみだれに怒りを燃やした正義感からである。悪に強いものは善にも強いと言われるが、やがて彼は、神本に、
俺のような人間でも、日本のお役に立てるだろうかと言いだしたのだ。
それは、君の決心次第だ。ただし、もし君が日本のために戦うなら、今までのような生活はできない。日本人は正義のために戦うのだから、君も他人のものを罵り、奪ったりはできなくなる
ハリマオは、ややしばらく考えていたが、神本さん、わかった。私は今日限り、他人の持物はサロン一枚(この地方は絹織物のサロンの手工業が盛んだった)盗まないことを誓う。そして、あなたと一緒に御国のために働かせてもらうが、ただ一つ、お願いがある
なに?
 ハリマオは、ちょっとはにかんだ様子で言いしぶったが、
「字を教えてください。漢字はとても無理だから、仮名でいい」
三歳でマレーに渡り、学校にも行っていないハリマオは、目に一丁字もなかったのである。
なににするのかね。
それは--
 と言いさして、ハリマオはまたしても口ごもった。
私のことを一番心配していたのが、日本へ帰った母です。その母へ、私は私の手で、御国のためにつくせる人間になったことを知らせてやりたい
 神本は感激した。同時に (これは本物だ。この男はもう立派に立直った) と、己れの努力の無駄でなかったことをも喜んだのである。
数日後、ハリマオは彼ら独自の連絡法で、パタンに近いジャングルの中に乾児たちを呼びあつめると、俺は今日から日本のために命がけではたらく。そのために、サロン一枚盗まないことを、俺の友だち日本人に誓った。日本は遠からず、マレーの原地人をも救いに来てくれるだろう。だが、日本は俺にとって祖国だが、お前たちには他国だ。もし、俺や俺の友だちのいうことが信じられず、他国のために命をすてるのは馬鹿らしい、いやだと思うものがいたら、遠慮はいらないから、今すぐ去ってくれ。俺と行動を共にし、俺と一緒に日本の日の丸の下で死のうというものだけが残ってほしい。そして今日から俺の友だちや、この友だちを俺の処へ使いによこした日本の王様、天皇陛下の御ためにはたらくのだ
と害した。乾児たちに(日本のため、天皇陛下のおんために死ぬ)ということが、わかったかどうか疑問だ。おそらくこの、タイやマレーのならず者たちには、その話の半分も理解できなかったろう。しかし、元々ハリマオに心服し、ハリマオの命令で命も捨てようとしていた連中だから、ハリマオが『右』と言えば右、『左』といえば左で、一人も去るものはなく、共に命を捨てることを誓い合ったのである。
 話をふたたびバンコックの武官室に戻そう。

そのハリマオと乾児たちにとって・マレー半島は自分たちの庭にもひとしいから、どこにどんな英軍陣地があるか、軍事施設があるかということは、多分掌を指すようにわかっているだろう。まだ、わが方への協力工作に成功しただけで、実績はお目にかけられないが、今も神本君はハリマオと起居をともにし、文字を教えたり、工作を指導したりしているから、遠からず情報がはいって来る。さて・その次にシンガポールだが--
 と言いさして、田村大佐は、またしてもウイスキーでのどをしめすと、君も知っての通り、シンガポールには鶴見総領事の下に鹿児島中佐が外務書記生と
なってもぐりこんでいる。ここには、マレーのインテリ急進分子で結成された反英結社のYMA(マライ青年連盟)の有力分子がいることだけはわかって、それと手をつなぐべく工作しているのだが、今のところまだ連絡はついていない。それとは別に君の方で派遣した田代重遠(本名は岩田。佐賀県出身でシンガポール在住三十年)の、波止場苦力に対しての反英呼びかけの工作がある。仏印の方も、反仏グループは、クォンデイの王朝派と、ホー.チミンの民族派の二つがある。しかし、この両派は、反仏では一致しているものの、おのおの主義の違いで反目しているのだ。なんとか工作したいとは思っているが、ここも人手が充分でないから、まだ手をつけていない。それにスマトラ、ジャワ、この方面もまったく手がかりなしで、面目次第もないが、今のところ、お役に立つかどうかわからないが、南方工作は、大体こんなところだろう
 要点をメモしながら、熱心にきいていた門松正一中佐の顔にも、田村武官の話が終る頃にはやや安堵の色がみえていた。もちろん、これで充分とは言えないが、無にもひとしい第八課の工作からみると、バンコック武官室の働きは抜群で、武官、有難うございました
 彼は思わず容をただして礼をのべ、さっそく東京に帰りまして上司にも報告、工作員を派遣いたしますと約束したのである。

「秘録 陸軍中野学校」 畠山清行 著 より
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by xsightx | 2006-03-25 12:41



下部 健太
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